タイガーマスク基金 インタビュー

タイガーマスク基金 インタビュー#5
子どもたちへの応援歌を作りたかった

子どもたちの立っている世界

映画にはお母さんも登場します。私はこのお母さんの存在が気にかかりました。

この映画では説明不足なところはたくさんあると思います。ここは僕がこの映画を編集するなかでものすごく格闘した部分です。ドキュメンタリーであれば、当然奥の奥まで撮りたいし、見たいわけです。フィクションなら思うように描けるものも、ドキュメンタリーには踏み込める場所と踏み込めない場所があるんですね。踏み込めたとしてもそれをどこまで表に出せるか、情報から見えてくるものは何なのか、どう捉えられるだろうか……と。お母さんが出てこない映画にだってできたはずなんです。だけどやっぱり、お母さん抜きにしてはむっちゃんの立っている場所というものは見えないんですよ、絶対に。だってそこで彼らは格闘しているし、やっぱりそこが出発点なわけじゃないですか。
 

僕は映画を作る時に思っていたことがあります。それは、子どもたちに対する応援歌を作るんだということ。彼らを取り囲む大人たちは、どんな立場であれ子どもを応援したいとみんなが思っています。僕も映画を作る側としてはそこに立ちました。

 

子どもたちが親と一緒に暮らせない理由は様々です。だけど、どんな体験をしようと、子どもは実の親を求める。そのことが光の子どもの家に行ってよく分かりました。同時に、もう一度親と暮らすということは生易しくはないのだということも。

  

親子の再統合の難しさは映画を見ても感じました。

誰だって親と一緒に暮らせたらいいというのは本気で思いますよ、子どもたちを見ていたら。光の子どもの家の菅原さんは「血より濃い水になるぐらい関わらなければダメだ」と言います。だけど職員がどんなに頑張ったって、血というのは濃い。親が来た瞬間に輝くような笑顔になったりするんです。色々と難しい部分はあるけれど、他者が簡単に切って離してとできるようなものじゃない。児童養護施設は子どもにとって最後の砦じゃないですか。「自分は何でここに居なきゃいけないんだ、ここで生きていきたくないよ」ってみんな思っていますよ。理不尽なことや納得できないことばかりに囲まれて生きている。映画でムツミちゃんとマリナちゃんを担当している保育士のマリコさんに対して愛情をかけ過ぎという意見もあるかもしれないけれど、どんなにやったって足らない。行き過ぎなんてことはありえないと感じます。保育士や周囲のおとなが密接に隣り合うなかで、子どもたちは、本当に多少だけど、「生きていてもいいかな」という自己肯定の気持ちを持つことができるようになるのかもしれません。

 

 

子どもにとって何が一番いいのか、それは難しいことなんだけれども、でもこの答えのないことを必死に考えること、探し続けること。それをするのが周りの大人たちなのではないかと思います。その先に子どもが行きつく場所、それが親であろうとおじいちゃんちであろうと、施設であろうと、子どもにとって一番いい場所がいいんです。原理原則的に「家庭に戻す」ことだけを目的にするのは、なんというか、何かが間違ってしまうのではないかというのが僕の感じたことです。子どもは色んな人間関係の中で育ちます。人を信じられなくなったら信じられるような経験を何倍もしないと、もう一度人を信じられるようにはならないと思うんです。その経験こそが大事で、それはやっぱり人との出会いなんですよね。

 

 

観る人の「私の」問題として感じてほしい

児童養護施設の抱える問題や虐待の問題にもっとフォーカスするべきでは?という声も上がっているのではないでしょうか。

上がってきてますね。そういう声を聞くと、やっぱりそうなんだな~と思います。
 

僕は児童養護施設で撮ったけれど、児童養護施設の何がしかの問題や抱えている状況とか、そういうものは撮らないんだと途中から決めていました。それは、光の子どもの家が、人間の「関係」を撮ることができるある意味特殊な施設だったからです。

実はマリコさんに辞めたくなったことはないのかと聞いたことがあるのですが、マリコさんは「何度もある」と。特に子どもたちが悪さをした時に「ああ、やっぱり私が担当だからダメなんだ……」と責任を感じてしまうそうです。でも、「私が辞めるというのは簡単ですよね、私は自分の意志でここに働きに来たんだから。でも、子どもは自分の意志で来たわけじゃない。この歴然とした差を見てしまった時に、自分自身がどんなにダメでもとにかく『居る』しかないよね」と。それが「隣る人」という言葉にもつながっています。彼らは施設職員という仕事をしているのだけれども、心と心の関係という部分では仕事ではない。人と人の関わりって、根っこのところではそういうものだと思います。

措置されてやってくる子どもと、自分の意志で仕事として選んだ職員。この出会った人間同士が暮らしを共にしていく中で、ある濃い関係が紡がれ、醸成されていきます。人間関係というのは、そこにあらかじめあるものではなくて、暮らしや日常の中で作られていくものなのだと、そういう風に見られるようになりました。だから映画はそこに焦点を合わせています。

 

 

もちろん職員の労働環境や子どもを守る制度について疑問は持っていますが、それらは何のためにあるのか?と考えると、やっぱり「子ども」だろ、と。何事も「子ども」から始まらなければ嘘だろう、という思いがあります。

 

虐待の話にしても、僕はこの映画を観る人の「私」の問題として見てもらいたかった。たとえばムツミちゃんを見て自分の子ども時代を思い出したり、自分の子どもを思い浮かべたり。マリコさんに母親としての自分や自分の母親を重ねたり、ムツミちゃんのお母さんを見て自分を思ったり。人それぞれの見方をしてほしいと思う。だから僕はナレーションも一切付けなかった。虐待についても、「虐待の問題です」という表現にはしたくなかったんです。「虐待をした親」という向こう側にいる人間じゃなく、「私の」中にあるかもしれない問題として感じてほしかった。児童養護施設の話ではありますが、元をただせば家族の話で、家族の話というのは私の話になっていく。遠くにある児童養護施設の話として展開するか、「これって私たちが生きているという話だよね」と感じるか。言葉で説明することで、幅の広い見え方をするものが閉じてしまうということは避けたいと思いました。

 

監督が8年間を通して色々な思いを感じてこられたことがよく分かりました。作品にするにあたって編集は大変だったのではないでしょうか。

8年の間にたくさんの子どもを撮っているので、別の子どもを主人公にしたまったく違うストーリーもありました。でも、作ってはダメ、作ってはダメを繰り返し、何度も編集し直しました。行き詰ってしまった時、企画の稲塚という女性から「刀川さんが意識していなくても、映り込んでしまったものの方にこそ意味があるのかもしれないよ」と、暮らしの中に意味があるということを教えてもらったりして。最終的にはこれまでに撮った映像をすべて見直して、一体何が大切なことなのか、もう一度考えながら映画の核心を詰めていきました。

 

ナレーションもテロップもない、こんなに説明のない映像はテレビではできません。でも映画の場合はこういう表現で見る人にゆだねることができます。僕は映画を色んな視点で見てほしいと思ったし、映画を見た人によって議論が展開する、そこまで含めてこの映画なのだと思っています。

 

 

『隣る人』

(あらすじ)

地方のとある児童養護施設。ここでは様々な事情で親と一緒に暮らせない子どもたちが「親代わり」の保育士や職員と生活をともにしている。マリコさんが担当しているのは小学生のムツミとマリナ。対照的な性格のふたりに、マリコさんは愛情を持って接している。様々に葛藤しながら日々過ごす中で、離れて暮らしていたムツミの母親が、再び子どもと暮らしたいという思いを抱えて施設にやってくる……。一緒にご飯を食べて、お手伝いをして、絵本を読んで、寝る。そんな平凡だけれど大切な日々の暮らしの中で、壊れた絆を取り戻そうと懸命に生きる人々の姿を描き出す。

 

公式HP http://www.tonaru-hito.com/

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