タイガーマスク基金 インタビュー

タイガーマスク基金 インタビュー#6
施設を出た子どもたちが頑張れる場所を提供したい

株式会社セスナ 代表取締役 清水孝弘さん

1971年生まれ、大阪府出身。小学校低学年から高校2年生まで大阪府の児童養護施設で生活。高校中退と同時に施設を退所。結婚や出産、離婚や転職など人生の岐路を何度も経験しながら、現在は株式会社セスナの代表取締役として奮闘している。児童養護施設を出た子どもや若者の雇用に関しても強い関心を持つ。

 

児童養護施設で育ち「家族とは? 愛情とは?」と苦悩した経験を持つ清水さん。しかしすべてのできごとは今の自分にとってプラスになっているとも言います。施設経験者だからこそ伝えられることを、率直に語っていただきました。

 

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毎日が嫌で仕方がなかった子ども時代

幼稚園くらいの頃は、親に対して厳しくて怖いイメージはありましたが、一般的な家庭だと思っていました。しかし、あるとき母と妹2人がいなくなり、父もいなくなってしまって知人のところに預けられました。それから、しばらくすると父が見知らぬ女性を連れてきて「新しい母親になる人だ」と紹介し、その女性か実の母親かどちらと暮らすかと聞いてきたんです。父が新しい生活を始めるなら自分は邪魔だろうと子ども心に思い、母のもとへ連れて行ってもらいました。

 

母もすでに別の人と結婚していたんですが、アルコール依存症のようになっていて、生活はかなり荒んでいました。新しい父親からの虐待もあり、子どもながらに死を覚悟したこともありました。夫婦仲もよくなかったのか、もめ事もしょっちゅう。毎日が嫌で嫌で、一日がとても長かった。その後1、2年はあちこちを転々としていて、学校にもあまり行っていなかったような気がします。やっと落ち着いたのが大阪の岸和田市でした。

 

 

荒れていた施設での生活と高校中退

小学校3年生くらいの頃、妹たちと一緒に最初の児童養護施設に預けられましたが、すぐに大阪府高槻市の施設に移りました。施設の先生たちは厳しいながらも愛情がありましたが、子どもたちの中にはやさぐれる者もいて、施設自体が少し荒れていました。子ども同士で盗みを強要したり、給食のおかずを奪ったりして。そんな生活になじんでくると、今度は自分もいばりだして年下の子を使いっ走りにしはじめた。でも、正直に言うと施設での生活はあんまり覚えていないんですよね。過去のことは思い出すと辛いので、自分で忘れようと訓練してきたようなところがあります。今でも記憶力が悪いのはそのせいだと思ってるんですけど(笑)

 

進学した工業高校の卒業を待たずに施設を出ました。施設の先生との恋愛関係がバレてしまったためです。私が退所した後で、彼女も辞めることとなりました。高校でもなかなか周囲に馴染めずに、喧嘩したり遊び惚けていたりしていて、このままでは留年確実というときだったんですが、夜間部に移ることになり、昼間に働き始めました。仕事内容は消防設備のメンテナンス作業。やりがいは感じなかったけれど、なんとか続けられたのは生活のためです。逃げる場所もなく、頼るところもなかったですから。でも、偉くなりたいという向上心は人一倍あったので、できない勉強をして消防設備や電気工事の免許を取りました。

 

 

父親との再会

施設を出たあと、入院中で空き部屋になっていた母のアパートに転がり込み、しばらくそこで暮らしましたが、つき合っていた先生との間に子どもができて新しい部屋を探すことになりました。17歳の頃です。そこで、ずっと会っていなかった実の父を寝屋川市に訪ねて行き、家を紹介してもらいました。子どもの頃に別れて以来ですから、ずいぶん久しぶりのことです。それまで母からは最低の父親と教えられて恨んできたのですが、自分に子どもができてみて、父の言い分も聞いてみないといけないなと考えるようになりました。その結果、本当に最低だったらそれでバイバイでいいし、違えば自分のためにもなるかなと思ったんです。

 

何年も会っていなくても、顔を見たら父だと分かりましたし、向こうも顔つきが自分と似ているということですぐに分かったようです。それに、話を聞いてみたら、父と母のどちらが悪いというものでもなくお互い様やなと思いました。父は子どもの頃「新しい母親」と紹介した女性と家庭を築き、その女性との間にできた2人の子どもを育てていました。続く相手とは続くのだから、母にも問題があったのでしょう。ちゃんと生活しているんやな、父も父で一生懸命生きているんやな、と感じました。それで少しずつ、わだかまりがありつつも、新しい形でつき合い始めることができました。後に父は事業に失敗して夜逃げ同然でいなくなり、再び音信不通になりましたが……。

 

 

「家族ってなんだろう」という悩み

結婚を申し込んだときは相手の両親に大反対されましたね。身元がしっかりしていないとか、施設育ちということで人間的に不安があるとも言われましたけど、何よりまだ若すぎると。自分は16歳、彼女は25歳でした。自分としてはこれまでいろんな経験もしてきたし、何とかやっていけるだろうと思っていました。これからちゃんと子どもを育てていく姿を見せていけばいいと。今から思えば甘かったですけどね。

 

「家族」というものの存在は自分にとって大きかったですね。家族を作りたい、幸せになりたいという感情は大きかったんだけど……。例えば、妻にはちゃんとした家族がいて盆暮れには親戚で集まるんですけど、そのときに自分がどう振る舞えばいいのか、まるで分からなかった。集まって何をするのか、何が楽しいのか、どんな話をすればいいのか、経験したことがないから想像できない。みんなが昔話をしている輪の中に入れなくて、仕方がないから子どもをあやしたりしてやり過ごしていたけど、自分のことを気遣ってくれる人なんて誰もいないように感じた。最初のうちはそれでもいいと思っていたんだけど、だんだん居心地が悪くなっていって、妻に愚痴をこぼすようになりました。「俺、ずっとひとりぼっちだし、たまには中に入れてほしい。時間が長いやん」と。

 

家族ってなんやろなぁって、その頃すごく考えました。自分は受けたことがないから分からないけれど、愛情ってそんなに大したものなんやろか、って。子どもや妻にどう接していけばいいのか、誰にも教わってこなかったから悩んでしまったんですよね。子どもにも、本当は何事もひとつひとつ順に経験していくべきものだと今では思うのですが、早く一人前にしなければいけないと気持ちが急いでしまうところがあって、挨拶とか箸の持ち方にまで厳しくしつけていました。

 

 

離婚して何もなくなってしまった

そんなときに、お義父さんが倒れて、身の回りの世話をしていたお義母さんも脳梗塞になってしまい、そのサポートのために妻がほとんど実家に行きっぱなしの状態になりました。朝起きて子どもの弁当を作って、電車で1時間かけて両親の世話をしに行って、夜遅くに帰ってくる。そんな毎日で妻も大変だっただろうと思います。しかし、それが1年くらい続くと自分も耐えられなくなってきて、ついには妻にひどい言葉を投げつけてしまいました。「お前の親が死ぬまでこんな生活を続けないといけないのか」と。最終的には自分が浮気をして別れることになりました。

 

離婚して、ただの“何もない男”に戻ってしまったと思いました。もともと家族も何もない、ただの一人の男だったけれど、若いうちに子どもができて、もがきながらも家族というものを作り、それを守っていくために必死になって頑張ってきたつもりだった。生活を整えて、マンションも購入して、仕事に必要な免許も取って。そうやってコツコツと信頼を積み上げてきたことがようやく認められてきたという自覚がありました。それが離婚したら何にもなくなってしまった。もう、どうでもいいと自暴自棄になってギャンブルに手を出したりもして、そのときは生活が荒れましたね。

 

>仕事の面白さに目覚めた20代後半

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