タイガーマスク基金 インタビュー

タイガーマスク基金 インタビュー#10
自らの体験から、虐待を減らしたいという思いで、虐待防止活動を続ける

暴力に耐えかね、義父を殺してしまう寸前まで追いつめられ

 

中学になり、彼氏ができたのですが、その彼がいわゆる不良。髪を染めて、ピアスをつけて、夜はたむろして、たばこを吸うという感じ。私も彼に合わせるように、髪を染め、ピアスをつけるようになりました。家にいると暴力をふるわれますから、家に帰らない日も多くなり、でもそのたびに義父に連れ戻され、さらに暴力をふるわれました。

 

ある時、連れ戻されたときには、怒り狂って、上半身裸にされ、背中じゅうにたばこを押しつけられやけどを負いました。監禁され、学校にもほとんど行かれず、食事とトイレのときだけ部屋から出られるというような生活を送りました。そのころの記憶は、ほとんどありません。義父としては、不良仲間と断ち切るための、しつけという理由だったようです。
そのような状況でしたから、中学校は半年行けたかどうかという感じです。高校をどうするかという話になり、中学校の出席も少なく、学力的にも入れるようなところもありませんでした。

 

私よりさらにひどい虐待を受けていた兄は他府県へ就職しました。いままでは兄と二人で受けていた暴力は私1人に向けられました。

 

義父は借金をしてお金もなかったので、中学校を卒業後は、縫製工場で働き始めました。時給はたしか620円。月11~12万円程度の給料。「働いたお金でおしゃれしたい」「何か買いたい」と思ったのもつかの間、給料はすべて義父に取り上げられ、お金はパチンコや酒、に消えていきました。逆らうと怒り狂って殴られる、体に触られるという状況の中、私自身、義父のことを殺してしまう寸前でした。でも、一生犯罪者として生きることになると、思いとどまりました。

 

 

3万円を持って、義父の元から離れ……

父からの暴力を受けながら、それでも我慢して暮らしていました。17歳になった頃、父の借金がふくらみすぎて、家が競売にかかることになりました。母は入院。必然的に、私と父との二人暮らしが始まりました。暴力はもちろん、このままではレイプされると思い、ついに我慢できなくなって、家中探して3万円のお金をかき集めて、それを持って大阪に行きました。


3万円しか持っていない私は、まず住むところをどうにかしなくてはと思い、不動産屋さんへ。たまたま入った不動産屋さんがとてもいい方で、敷金利金無しで、1万円だけを支払い、家賃3万2000円は翌月からの支払いにしてくれました。6畳一間でしたが、やっと安心できる寝床ができたという感じでした。

 

次は仕事探しです。生活費を稼ぐために朝はコンビニで、夜は年齢をごまかしてスナックで、1日2~3時間睡眠でしたが、頑張って働きました。

 

ある程度お金がたまったところで、実家が不便なところだったので、昼は教習所に通い、自動車免許も取得。車も購入。休みを取りあと3日したら、サプライズで母に会いに行こうと思っていたのに、あと3日は待ってくれず母は亡くなりました。母に会うという夢は叶いませんでした。

 

母は、父の虐待から私を助けてくれなかった。でもやっぱり私にとっては、大切な存在でした。これで迎えに行かれると思ったのに……。生きる希望がなくなり、母の後を追いたいとも思いました。

 

 

絶望の中での、今の夫との出会い。そして夫の両親

18歳の時、働いていたスナックの常連からの紹介で、今の夫(当時24歳)と出会いました。食事に行ったりして、つきあい始め、その後妊娠。迷いはありましたが、子どもに暴力を振るってしまうかもしれないという気持ちがよぎり、私が虐待を受けてきたこと、子どもを育てる自信がないことも全て伝えました。彼は全てを受け入れ「一緒に乗り越えよう」と言ってくれました。


夫の両親もとても温かく迎えてくれました。「おまえは、ここのムスメやからな。悪いことしたら怒るで」と。「うちの末娘や」と言って、飲み過ぎると叱られたり、一緒に食事したり、体調を気遣ってくれたり、本当に温かく包み込んでくれました。

 

19歳で第一子の女の子を出産。おっぱいの飲ませ方から、おむつの替え方、お風呂の入れ方まで、全部義母が教えてくれました。そして「今日は見ててあげるから、二人で出かけておいで」と夫婦の時間を作ってくれることもありました。すぐに2人目ができ、20歳で第2子の男の子を出産。23歳で第3子の女の子を出産しました。本当にたくさんの幸せを手にしたと思いました。

 

>虐待を乗り越えたからこそ、伝えていくことが私の使命

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