施設にいたことを否定的に思わないで欲しい #7

インタビュー

大和ハウス工業株式会社  島袋孝博さん

大和ハウス工業株式会社 総合研究所建築技術研究室特殊工法技術開発グループ。1969年生まれ、大阪府出身。小学生時代に虐待を受け、中学校~高校時代を児童養護施設で過ごす。施設出身者としての経験談などを児童養護施設の子どもたちに伝える活動も始めている。家族は、妻と小4女の子(小学4年生)。

小学生時代の養父からの虐待と、母親

私の家は、父親がいなくて、母と祖父母と暮らしていました。非嫡出子として生まれ、小1の時に母が結婚し、養父との生活が始まりました。私が8歳の時に弟、10歳の時に妹が生まれました。そのころの生活環境が、私としては、かなりつらかったですね。
養父は定職に就かず(「就かず」というより「就けなかった」のかもしれません)、そのため家に住めなくなって、また住処を探すという繰り返し。そのため、小学校は7回、中学は3回変わりました。転校ばかりですし、養父からひどい虐待を受けていましたから、家庭は勉強をするような環境ではないため、勉強にもついて行かれず、その結果、友だちもできませんでした。そんな家での生活が、児童養護施設に入る中学1年まで続きました。

児童養護施設への入所理由は、養父との関係が築けなかったことですね。殴られたり、家に入れてもらえなかったりということがしょっちゅうでした。弟と妹がいましたが、彼らは養父にとって実の子ですから、殴られたりしませんでした。私への虐待は小1のときから。養父と一緒に暮らし始めてから断続的に行われました。
学校に弁当を持って行かれないし、そもそも学校に行かれない、家に住めない、勉強したくてもその前にお腹がすいている……という生活でした。

養父とのパワーバランスなのか、私が養父から暴力を受けていても、母が助けてくれることはなく、「あんたが悪い」と言われました。「自分が悪かったんだろう」「でも、なぜ、自分だけが、こんなことになっているんだろう」と思っていました。次第にエスカレートする暴力に幼い私は、耐えるしかない状態でいく所もないので抜け出すことはできませんでした。

刑務所のような印象の一時保護所。そして児童養護施設へ

中学生の時は、児童相談所の一時保護所で3回、過ごしました。トータルすると、かなり長期間の一時保護所で滞在したことになります。
今は違うかもしれませんが、一時保護所に入所するときには、着てきたものをパンツも含めてすべて脱がされ、保護所用の服に着替えさせられました。鍵が掛けられ外にでることもできず、塀に囲まれていて、子どもながらにまるで刑務所のような印象を受けました。多年齢が一緒で、小さい子どもも、中学生もいるし、「人を刺して警察にやっかいになった」と一晩だけ泊まるなんていう子もいました。子ども同士も、上下関係がすごくある世界でしたね。

児童相談所は、才村純先生(現:関西学院大学 人間福祉学部教授)が担当でした。正直、子どもですし、児童養護施設がどういうところかも知りませんから、「施設には行きたくない」と思っていました。母親も私を施設に入れることを反対し役所や法務局など訴えかけました。でも、才村先生が根気強く、法務局などいろいろなところと交渉し、調整して、嫌がる私の手を引いて、車に乗せました。これが、私にとっての大きなターニングポイントでした。そのまま家で過ごしていたら、今、どうなっていたのかと思います。生きていなかったかもしれません。今では助けていただいたと感謝しています。

「ご飯を食べられる、風呂に入れる」児童養護施設での生活

そうして、13歳中学1年生のときに、児童養護施設に入所。児童相談所で、「養育できていない」という判断になり、施設に入所することになりました。児童養護施設では家族の再統合を勧める場合もありますが、私の場合はそういう機会は全くありませんでした。
最初に入った児童養護施設は、東大阪市にある公徳学園という施設で児童数が110名くらいの大きなところでした。弟と妹も一緒に入所しましたが、年齢で分けられますし、食事も大きな食堂で全員一緒に食べるため、きょうだいと会うことはありませんでした。

自宅で過ごしているときは、あまりご飯を食べさせてもらえずに、常におなかが空いていましたし、風呂だって週1回も入れなかったりしました。だから、児童養護施設で過ごすようになって、なんて安定した生活を過ごせるのだろうと思いました。風呂も毎日ではありませんが、週に2~3回は入れましたし、とにかくご飯をちゃんと食べられますからね。

家族旅行にも、行ったことがありませんでしたから、施設で、海に行くだけでも楽しかった。つらかったけれど、人と違う経験ができたと思っています。

施設から逃亡したことも

でも、最初の児童養護施設にはなじめずに、何度も逃げ出しました。学校は「熱がある」と言ってずるやすみして、荷物をボストンバッグに詰め込んで、生活していた2階の窓からカバンを投げ、フェンスを乗り越えて施設から逃げました。以前住んでいた土地の友だちを頼り、しばらくは友だちから弁当を分けてもらい、そのうち食べるものがなくなって、うろうろしているところを警察に保護されて、また施設に戻るという繰り返しでした。一時期は、「教護院(現:児童自立支援施設。罪を犯したり、犯す可能性のある子どもたちの施設)に行きますか?」というくらいまで、荒んだ生活をしていました。

その後、措置変更となり、高槻市にある「健康の里」という児童養護施設に入所しました。中2の夏前です。もともと健康の里は、虚弱児施設だったのですが、ぜんそくが少しあったということもあって、施設を移りました。
健康の里は、とてもなじみやすいところでした。1部屋4人くらいの生活。私は着ていた服しか持っていませんでしたが、「どこから来たん?」「服、持ってないんか?」「これ着ろや」なんて話しかけてくれました。今までそんなやさしい言葉を掛けられたことが無くて涙が出ました。前の施設は、人数が多く、先生と話す機会もありませんでしたから、全く違う印象でした。みんなで語り合い、みんなで野球したり、食事もとてもおいしくて、心が癒されました。

児童養護施設を退所して、今の会社に就職

施設にいるときには、中卒でもいいから、早く施設から出て、自分で稼いで生活したいと思っていました。でも、施設の先輩が「高校くらい、いかなくてどうするねん」とアドバイスしてくれたのは、ありがたかった。高校に行ったからこそ、今の自分があると思います。
どうせ高校に行くなら、近くの高校ではなく、電車に乗って、遠くの高校に行きたいと思いました。いろいろな人や場所も見られますから。大阪の繁華街の近くを通って行く、西野田工業高等学校の土木科に通いました。

18歳で退所し、同時に現在の会社に就職しました。バブル期でしたが住み込みは少なかったので、入ることができてよかったです。会社の寮は6畳で一人暮らし。結婚するまで寮にいましたから、お金も貯まりましたし、その分使いましたよ(笑)。

会社に入ってからは、研究所で1年間勉強し、構造実験をしたり、講義を受けたり、現場に行ったりしました。上司からもそうですが、会社に入って教わったことは、とても多かったですね。毎日、叱られましたよ(笑)。最初に仕事を教えていただいたのは海軍で艦船に乗っていた大先輩で厳しい方でした。大工仕事に長けた器用な方、不器用なりの工夫の仕方と取り組み方を教えていただきました。そして3年後転勤して、仕事を教えていただいたのは、海軍の偵察機に乗っていた大先輩でした。宮大工の棟梁のお孫さんで、棟梁的なセンスで、考え方の違った視点で物事を教えていただきました。そのころから、自分の境遇なんて大先輩の話を聞くとたいしたことじゃないと思えるようになりました。

18歳で社会に出て、会社に育ててもらいました。右も左もわからなかった。施設出身者だということは、上司は知っていたと思いますが、取り立ててそれがハンデになるとか、話題になるということもありませんでした。過去は仕事には関係ありませんし、本人の志と行動ですね。21歳のころには、現場監督として勤め、新入社員の教育を担当するようになりました。
今は、建物のつくり方を考える技術者です。狭い土地に、どのようにつくることがよりよいつくり方か、免震住宅をどのようにつくることがよいのかと考える、さまざまな研究をしています。独自で技術開発するとてもやりがいがあります。

結婚、子育て。そして今、思うこと

20代のころは、施設にいたことは思い出す余裕はありませんでした。施設出身なので、お正月やお盆に帰るところがありませんでしたから、休みを利用して旅行にも行きました。サーフィンを始めて、それも趣味になりました。恋愛もたくさんしました。会社に入ってからは、今とこれからの話ばかり。過去の話はほとんど不要でした。
結婚は31歳の時。スポーツクラブで知り合い、7カ月くらいで結婚しました。結婚前に生い立ちを話しましたが、妻は幼稚園の先生ということもあり、理解してくれやすかったかもしれません。

娘に、殴ったりすることは一切ないですね。自分が受けていたから強く思いますが、殴るのはよくないことだと思います。自分自身、なぜ、殴られなくてはならないのかと、理不尽な思いをたくさんしましたから。
でも、施設の中のような閉ざされた空間では、自分のポジションを確保しようとするために殴ったりするということは出てきます。狭い空間で長い時間、集団で過ごすと人間の狂気が垣間見えることを感じました。私は施設の身近な仲間とともに過ごすとケンカになることが多かったので、そんな行き場の無いストレスを発散するためにボクシングジムに通っていました。

でも、本当に、自分の過去の経験からしても、まず住むところがあることが、大切ですね。私は、会社を辞めようとは思ったことはありません。辞めてしまうと住むところがなくなってしまうこともありますが、仕事に集中できる環境に身をおくと、その中から何かしらの楽しみが出てきます。つらくても、仕事を続けることで考え方が広がり、生活が安定すると思っていました。
施設にいる間に、社会にでてからのことを考えました。自分がどれだけの選択肢を持っているかということ、そこから物事を判断して、決めるということ。職員や先輩の話を聞くと、選択肢が見えてきます。自分が考えないと、選択肢が見えてきませんから。施設にいる間に、一生懸命に考える、考え抜くことは、とても大切だと思います。

でも、母には感謝しています。産んでもらったこと、育ててもらったこと。憎いんだけど、今、自分があるのは、母のおかげですから。この年になって全て許せるようになりました。

自分ができることを模索中

20~30代の頃は、自分が収入を得て税金を納めれば、それが社会への恩返しになると思っていましたが、40歳を過ぎてから、「自分ができることはなんだろう」と思うようになりました。

「施設にいた経験があったからこそ、今の自分がある」と思えるようになりました。感謝の言葉を伝えたくて、健康の里に連絡しました。当時の職員はすべて変わってしまっていましたが、施設長さんと会うことができ、5時間も話しました。施設長さんは、「先輩のこういう話が大事なんだ」とおっしゃってくださり、その後、施設の子どもたちに話す機会をいただきました。

助けてもらった才村先生に、手紙を出したら覚えてくださっていました。お返事をくださり、その後も2回お会いして、感謝の気持ちを伝えました。そのときに、施設出身者で、茨城県高萩市長 草間吉夫さんのお話が出たので、ネットで調べていたところ、タイガーマスク基金にたどり着いたというところです。

今は、自分になにができるのかを模索しているところです。
私の場合は、虐待の環境から、児童養護施設に入ることで、住むところと食事、睡眠が確保され、生活が安定しました。虐待を受けている子どもたちは、この最低限の部分が保証されていませんから、まず、自分がステップアップするために、施設に入るという選択をさせてあげるべきと、思います。
そして、施設にいる子どもたちに、また虐待を受けている子どもたちに、どんなサポートができるのだろうと、考えているところです。自分の経験が役に立つのなら、施設の子どもたちや、施設の先生にどんどん伝えていきたいと思っています。

「施設にいる子どもたちへのメッセージ」

私が伝えられるのは、施設にいることを否定的に思わないということかな。どんなにつらい経験をしていたとしても、過去の境遇にとらわれすぎないことですね。
「今をがんばって生きる」という気持ちに、切り替えていきましょう。私自身も子どもの頃は、いろいろなことにとらわれたり、反抗していたけれど、気持ちを切り替えると、自由になれる。早く気づいてほしいと思います。

そのためにはまず、広く世間を知ることです。狭い空間しか知らないと、狭い空間でいやな思いをするものです。広い空間、長い時間を知ること、過ごすことで、分母が大きくなり、子どもの頃につらかった思いが小さくなるかもしれません。つらかった記憶を小さくする手段は、いろいろあると思います。まずは、自分の心が自由になるために、なぜ、こういう状態になっているのか、そしてどうすればより良い生活になるのか、具体的に考え抜くことが大切と思います。

そしていいことも悪いことも嫌なことも経験をして、人としての幅を増やしていく。そんな経験を積んでいけば、人としての厚みがでてきて、その厚みが重なった高さから再び広い視野で物事を見て経験を積んでいくことができます。それを繰り返すことで、辛い記憶に偏らない、とらわれない、こだわらなくなります。広く自由な考え方でいろんな問題を乗り越えてたくましくなること。施設出身だからといって、お金が無かったとしても、挫けても、それを乗り越えていく、デンと構えた考え方と心の持ちようを身につけてほしいです。

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