
上原陽子さん
NPO法人虐待問題研究所代表、虐待防止活動家。地獄のような虐待体験をし、現在は、夫と3人の子ども達にも恵まれて幸せな日々を送る。
産まれたときから受けていた、最初の父からの虐待
もともとは京都に住んでいました。2歳上の兄と父母の4人で暮らしていました。父は働かず、お酒を飲んでは酔って暴れていました。働かない父の代わりに、母が働き、朝から晩まで働いて家にはほとんどいませんでした。
3歳になったある日のこと、母が夕飯の支度をしていたので、お手伝いをしようと思いおぼんに、ご飯とおかずを運ぶ途中、ふすまのさんに躓き転んでしまい、その事に対して父がカッとなり暴れ出し、その刃物が私に向けられ、傷を負いました。3歳頃ですから、細かい状況など覚えていませんが、ただ怖かったという感覚だけが残っています。
それをきっかけとして、私と兄を守る為に離婚を決意。母は母子家庭となり、また働きづめの日々が続きました。母はしばらくして、再婚。それから母と兄と私、新しい父と、父の兄と両親との7人暮らしの生活が始まりました。
2番目の父も、暴力をふるって
最初父になつかなかった私を何とかしようと思った父が、私を殴ったり蹴ったりするようになりました。この父も働かず酒を飲み、パチンコで負けると、暴れ、殴られるという生活が続きました。2世帯住宅だったので、父の暴力があまりにも激しいときには、祖父が止めに入ってくれて、それで救われる部分もありました。その祖父は私が6年生の時にガンでなくなってしまいました。止めてくれる人がいなくなったので、父の暴力はますますエスカレートしていきました。血が出るまで殴らないと、気が済まない父親でした。
とにかく自分が思ったことがすぐにできないと、逆上する父でした。お風呂に入りたいと思ったときに、私がお風呂に入っていると浴槽に沈められる。パチンコで負けて夜中に帰ってくると、「なんで寝ているんだ」とたたき起こされて殴られるという日々でした。階段から突き落とされたり、ご飯を食べさせてもらえなかったり。
『私はこんな事で死んでたまるか!絶対幸せを掴むんだ!』と自分を信じ、励ましていました。空腹をしのぐために、家で犬を飼っていたので、犬のドッグフードを食べたり、家業で喫茶店をやっていたので、サンドイッチを作る時パンの耳を捨てるので、それをゴミ箱からあさるというような生活でした。
母がお腹の子を中絶。私が死ねばよかったと言われ……
小学6年生になり、私も女性的な体つきになっていましたから、義父からお風呂をのぞかれたり、下着をあさられたり、抱きつかれたりということも頻繁に起こり始めました。
中学1年生の時に、母が妊娠したのですが、私がおたふく風邪になってしまい、母のお腹の子どもが障がいを持って生まれる可能性も心配(※)だと言うことになり、子どもを中絶したことがあります。義父にとっては、自分の血のつながった子どもだったので、「おまえが殺したんだ。おまえが責任を取って死ね」と言われました。
本当に飛び降り自殺しようと思った前日の夜、夢に男の子が出てきて、「お姉ちゃん死んだらあかん。僕の分も生きて」と言われました。それで、生きる希望を持つことができました。
※妊娠中におたふく風邪にかかっても、胎児が先天異常を生じるというものではないと言われています。感染すると、頻度としては少ないものの、流産や胎児死亡などの確率が上がると言われています。
暴力に耐えかね、義父を殺してしまう寸前まで追いつめられ

中学になり、彼氏ができたのですが、その彼がいわゆる不良。髪を染めて、ピアスをつけて、夜はたむろして、たばこを吸うという感じ。私も彼に合わせるように、髪を染め、ピアスをつけるようになりました。家にいると暴力をふるわれますから、家に帰らない日も多くなり、でもそのたびに義父に連れ戻され、さらに暴力をふるわれました。
ある時、連れ戻されたときには、怒り狂って、上半身裸にされ、背中じゅうにたばこを押しつけられやけどを負いました。監禁され、学校にもほとんど行かれず、食事とトイレのときだけ部屋から出られるというような生活を送りました。そのころの記憶は、ほとんどありません。義父としては、不良仲間と断ち切るための、しつけという理由だったようです。
そのような状況でしたから、中学校は半年行けたかどうかという感じです。高校をどうするかという話になり、中学校の出席も少なく、学力的にも入れるようなところもありませんでした。
私よりさらにひどい虐待を受けていた兄は他府県へ就職しました。いままでは兄と二人で受けていた暴力は私1人に向けられました。
義父は借金をしてお金もなかったので、中学校を卒業後は、縫製工場で働き始めました。時給はたしか620円。月11~12万円程度の給料。「働いたお金でおしゃれしたい」「何か買いたい」と思ったのもつかの間、給料はすべて義父に取り上げられ、お金はパチンコや酒、に消えていきました。逆らうと怒り狂って殴られる、体に触られるという状況の中、私自身、義父のことを殺してしまう寸前でした。でも、一生犯罪者として生きることになると、思いとどまりました。
3万円を持って、義父の元から離れ……
父からの暴力を受けながら、それでも我慢して暮らしていました。17歳になった頃、父の借金がふくらみすぎて、家が競売にかかることになりました。母は入院。必然的に、私と父との二人暮らしが始まりました。暴力はもちろん、このままではレイプされると思い、ついに我慢できなくなって、家中探して3万円のお金をかき集めて、それを持って大阪に行きました。
3万円しか持っていない私は、まず住むところをどうにかしなくてはと思い、不動産屋さんへ。たまたま入った不動産屋さんがとてもいい方で、敷金利金無しで、1万円だけを支払い、家賃3万2000円は翌月からの支払いにしてくれました。6畳一間でしたが、やっと安心できる寝床ができたという感じでした。
次は仕事探しです。生活費を稼ぐために朝はコンビニで、夜は年齢をごまかしてスナックで、1日2~3時間睡眠でしたが、頑張って働きました。
ある程度お金がたまったところで、実家が不便なところだったので、昼は教習所に通い、自動車免許も取得。車も購入。休みを取りあと3日したら、サプライズで母に会いに行こうと思っていたのに、あと3日は待ってくれず母は亡くなりました。母に会うという夢は叶いませんでした。
母は、父の虐待から私を助けてくれなかった。でもやっぱり私にとっては、大切な存在でした。これで迎えに行かれると思ったのに……。生きる希望がなくなり、母の後を追いたいとも思いました。
絶望の中での、今の夫との出会い。そして夫の両親
18歳の時、働いていたスナックの常連からの紹介で、今の夫(当時24歳)と出会いました。食事に行ったりして、つきあい始め、その後妊娠。迷いはありましたが、子どもに暴力を振るってしまうかもしれないという気持ちがよぎり、私が虐待を受けてきたこと、子どもを育てる自信がないことも全て伝えました。彼は全てを受け入れ「一緒に乗り越えよう」と言ってくれました。
夫の両親もとても温かく迎えてくれました。「おまえは、ここのムスメやからな。悪いことしたら怒るで」と。「うちの末娘や」と言って、飲み過ぎると叱られたり、一緒に食事したり、体調を気遣ってくれたり、本当に温かく包み込んでくれました。
19歳で第一子の女の子を出産。おっぱいの飲ませ方から、おむつの替え方、お風呂の入れ方まで、全部義母が教えてくれました。そして「今日は見ててあげるから、二人で出かけておいで」と夫婦の時間を作ってくれることもありました。すぐに2人目ができ、20歳で第2子の男の子を出産。23歳で第3子の女の子を出産しました。本当にたくさんの幸せを手にしたと思いました。
虐待を乗り越えたからこそ、伝えていくことが私の使命

日々虐待の報道があります。私の場合、夫や義父母などの周囲の支えがなく1人で子育てしていたら、虐待していたかもと思いました。
何か伝えていかなくてはという思いにかられました。小学生のころから文章を書くのが好きだったので、本を書こうと思ったのがきっかけです。2006年に『虐待生活~私が自由を手に入れるまで~』(文芸社・現在は絶版)を出版しました。活字離れした人にも伝えたいと思い、虐待防止ソングを作り、音楽活動を開始しました。虐待防止ソングを歌う中で、10分程度の講演をするようになると、そこから講演のオファーをいただくようになったので、2009年から講演活動をスタートしました。
2012年12月25日にNPO法人虐待問題研究所を立ち上げ、仲間と共に、児童虐待を始め、ストーカー、老人虐待、DVなど、さまざまな虐待問題の解決に取り組んでいます。心理学も学び、心理カウンセラーとして、お母さんがストレスをためないで子育てできるようにというサポートも行っています。
私は地獄のような虐待を受けてきましたが、持ちこたえ、乗り越えることができた。虐待がなくなる世の中になるようにという現在の活動をするために、私は産まれてきた、私の使命だと思っています。
わが家の子育てと、活動のこれから
パパは叱る役で、私はフォローする役になっています。子どもに対してイライラすることは、ほとんどありません。子どもに言い過ぎたら「言い過ぎた、ごめんね」と伝えています。これ以上になると叩きそう…となれば、違う部屋に移動するなど、自分自身の気持ちをコントロールしています。
第1子は低出生体重児だったので、無事に産まれてきてくれたと言うことが本当にうれしかった。よく寝てくれて、育てやすかったです。
妊娠中、産婦人科の先生に「いい妊娠生活を送ることができると、子育ても楽になる」と言われました。私の場合、パパにも、義父母にも温かく支えられて、妊娠生活を送ることができたことが、本当によかったんだと思います。
現在、子どもたちは小6、小4、小1になりました。仕事も忙しくなってきましたが、子どもたちの生活を優先して、活動しています。
子育てをしていて、絶対にイライラしないと言うことはありません。でも、いかにストレスを溜めないか、どう発散するかということを知っていることがとても大切です。虐待防止は、子育ての前の段階が大事だと思っています。学生や若者にも、広く伝えていきたいです。